鹿児島県の離島・黒島。ちょっと前の生活が移住者の想像を超えていました

こんにちは。Web系担当の藤原です。
私は、ここ九州・鹿児島の離島・黒島に1年ちょっと前に移住してきました。

大きくざっくりいうとですが、フリーランスの私は普段の仕事や生活環境は、移住前の東京での生活と大きくは変わっていない感じです。

日本語話せるし(海外とは違って)、周りの方へも元々住んでいた東京の方と変わらない感覚で接しています。大きなカルチャーショックなどはありません。やっぱりTVやフェリー・ネットが大きいのかな、と思います。文化はそんなに違いません。コンビニはないですが近所のお店やネットで普通に好きなものを買えるし。

ちょっとした変化でいうと、時々時化でフェリーが来なかったり、など色々ありますが。
黒島の生活は、ポイントを押さえれば快適に過ごせるなーという感じです。
※坂元さんも移住生活のポイントを記事で書かれていました。

三島村に移住してきて良かったこと8つ、注意ポイント8つ、離島で飲む焼酎は美味しい!

2018.09.10

しかし最近、郵便局での雑談などから少し前の黒島の生活を教えてもらいまして。

「昔、幼いときは草鞋を履いていて。」

「昔は主食がさつま芋だったんですよ。」

「黒島に電気が24時間送電されたのは、昭和54年代後半でした。」

「大きくニュースになってないですけど、ベトナム難民が黒島に来たことがあって・・」

今はその影は全然ないのでびっくりなんですが、そんな昔の話をお聞きしてから周りをみていると、言われてみると名残があるような。(ないような。)

黒島の離島ならではの隔絶されたちょっと前の生活について、詳しくは三島村が舞台の「忘れられた島」や「私は忘れない」、また現・区長で写真家の日高重行さんの写真集「島の歳月」などの作品で知ることもできますが。
今回は、区長から貸していただいた写真とあわせて一部を紹介したいと思います。(区長、写真提供とお話ありがとうございました!!)

「島の歳月―鹿児島県三島村黒島」(amazonより)

 

有吉佐和子の小説の舞台となった黒島。この島に、今も259人が暮らす。本書は、隔絶された島の、伝うべき習俗を記録する。

「忘れられた島」(amazonより)

 

電信も電話もなく,戦争の終ったことすら3ヵ月後に知ったという.文化的施設もなく,住民の生活は極めて貧しい.日本にこんな島のあることを知らせるために強烈な愛と意志をもって写した.

「私は忘れない」(amazonより)

 

日本のめざましい経済成長の陰に、電信電話もなく台風の被害も報道されない僻地。スターの座を夢みながらチャンスを逃した門万里子は単身黒島へ旅立ち、自然との闘いの中でたくましく運命を切り開く人々の純朴な姿に心を打たれる―。

離島の生活の足であるフェリー。少し昔の状況・手作りのはしけ(ボート)で橋渡しをしていました

ハシケから荷物と一緒に人も上げていた(1978年)

昭和のはじめころの話です。

今は週4回運航のフェリーですが、そのころは鹿児島・黒島間は月1回くらいの運航でした。

港が整備されていなかったので大きな船を直接港につけることができず、
小さな船に乗り換えて、岸と本船を行き来して、人や物を運んだそうです。

その小さな船を「はしけ」といい、
昔はエンジンがまだついていない頃があり、手漕ぎの櫂と櫓で岸から本船までを往復しました。
島の木を使った島民手作りの船です。手作り、、すごくないですか。

子牛を運ぶはしけ(1978年)

舟のオモテを櫂で漕ぐ人と、トモを櫓で漕ぐ人が舟を操り、他にもみざおという竿を持って、舟が岸壁にたたきつけられないように操る人、最低5-6人の乗船員が乗船する必要がありました。

「だご石」のところに、一ひろくらいの丸太を切って並べ、そこから船を滑らせるようにして沖へ出すのです。

それを人力でやるので大変だったそうです。

通船作業の男性たちは、皆お酒を飲んでからくるので、よく喧嘩があったり、電気がない時代だったので、竹を割って束ねたものをたいまつにして岸から照らしたり。

昭和37.38年頃に「はしけ」がエンジン舟に変わりました。

港が台風で壊れたり、エンジン舟でも小さいので、車などの重量物を乗せるときに

空いたドラム缶を舟のわきにくくりつけて浮力を追加する必要があったり、本船とはしけの船には高低差があったので、子供たちが乗り降りするときは抱きかかえて乗せていたり、など昔の港のやりとりは、様々な大変な苦労があったようです。

昭和50年ごろ、港の改修からはしけがなくなって、段々と港も広く安全になってきました。今では、荷物も人も港に直接とまったフェリーから安全に乗り降りすることができます。
(過去の大里小中学校新聞より情報引用させていただきました)

今まで何気なくフェリーに乗っていましたが、港の作業されている皆さんの本気度が高くて熱いな、というのを感じていました。
離島の生活にはとても重要な役割であるフェリー。今は危険度はとても低い港の乗り降りですが、少し前は命がけのような大変さだったという歴史を踏まえたときに「だからなんだな、、」
と腹落ちしました。

フェリーみしまが初めて島に接岸したとき

ベトナムから「ボートピープル」が、ここ鹿児島の黒島にもやってきた

ベトナム難民を載せたボート(1993年)

平成5年(1993年)のことです。
ベトナム戦争後に混乱している祖国から脱出した、いわゆる「ボートピープル」が、ここ黒島にもやってきたそうです。
本当にボート一つで長い航路をはるばるやってきたベトナムの方々を相手に黒島の島民は身振り手振りで対応をしたそうです。

島民が身振り手振りでベトナム難民に説明するところ(1993年)

入国すると犯罪になってしまうため、入ってこないように長時間説得して、元の国に送るように手続きしたそうです。
そして当時、このことはニュースなどで大きく取り上げられず、
「長い時間かけて木のボートで命懸けて漂流して日本に辿り着いたベトナム人」も「そのベトナム人に対応した黒島の島民」も当時は世間にほとんど知られることがなく、離島・黒島のなかのみの話になったそうです。

このベトナムの人たちは裕福な雰囲気で、礼儀正しかった。驚いたのは、無事にたどり着けたという感謝の儀式として、お金と食べ物を乗せた船に火をつけて海に投げてお祈りをしていた。長旅でくたくただろうに、儀式を重んじていた。よい印象だった。」というお話でした。

少し前の離島・黒島の食事風景。主食が芋で、冷蔵庫は近くの湧き水という生活だった

米の脱穀(1980年)

昔は、朝はからいも、夜はみそ汁が中心で、米、麦、みそ、漬物などを作っていて、夏はネズミや台風のせいで食料難が来ることも多かったそうです。

文章にすると、なんかもう壮絶ですが。。

島民の皆さんにその経験を少し聞くと、からっと明るくおしえてくれます。

「子供だった頃は、さつま芋や麦と米を混ぜて炊くことが多くて、
でも米貴重だったから、割合が少なくて米の割合を増やそうとして、麦などを捨てて、減らしてて。子供だから全体の量が減ることは考えられず(笑)、それが親に見つかって怒られて(笑)。」

近所の奥さんが小さい頃の話を教えてくださいました。

私も4人兄弟でして、小さいときのお菓子の取り合いは壮絶でしたが、(早く食べないと無くなるので、早食いが定着しました)それとはまた少し種類の違う話のように思います。

米を多く食べたい!という食べ物がない時代の切実な感情は、現在の日本を考えると、貴重で大事な体験だと思います。

そんな話を会ったら優しい声をかけてくださる近所の方から聞けて、私は切ないような羨ましいような気持ちになりました。

また、黒島は昭和54年から電気が24時間送電になったので、
それまでは、何時間か決まった時間だけ電気が来るような生活でした。

冷蔵庫ももちろんほとんどなく、海で釣った魚など、近くの川の湧き水で冷やしていたそうです。

若水を汲んでいるところ(1980年)

そんな風に最近まで、自然と共に生きてこられていたから、普段から自然をよくご存知なんだなと思いました。

そのほか、いろんな方から楽しいお話を沢山お聞きしました。
「カラスの鳴き方や鳴く場所で人の死期の予兆がわかる」
(島のカラスは美しいカラスが多いんですが、なぜでしょうか)
「毎年春になると、名前もないひっそり咲いている花を見に山に登る」

など、商業地で長年暮らしてきた私とは、離島でずっと生活されてきた元々の住民の皆さんとは同じものをみていても映る景色が全然違うんだろうなー、と感じます。
他にも色々お聞きしましたが、ここでは書くことが出来ない話も(笑)。
またの機会に書けそうだったらぜひ書いてみたいです。

離島・黒島のちょっと前の生活は移住者の想像を超えていた

焼酎みしま村・メンドンの原料となるさつま芋の栽培なども、こういった歴史の背景があるのだと思います。(私が聞いた話は一部ですが)

こんないろんなお話を1年ちょっとしか住んでいない移住者の私に教えていただけて、それもすごくありがたかったです。
少しの質問にキラキラした目で答えてくださるのは島民の皆さん共通です。

島の郵便局や役場も、忙しい時じゃなければ、雑談したりできて、交流の場となっています。

少し前の島の郵便局のお仕事ぶりをお聞きすると、ある時期まで
おひとりでやられていたので、窓口業務のあと、島中を走って配達していた、、
(黒島は1周りすると車で2時間ちょっとです)など
えー、信じられない!!って感じでめちゃハードワークなのですが。

それとは別で、島民の別の方から話を聞くと、郵便窓口に行ったらお茶とお茶菓子を出してくれてほっこり話をして帰っていった、というようなこともあったようで。その流れが今の黒島の郵便局にはあるんじゃないかなーと私は思います。

皆さんも旅行や何かで黒島に来られたときにもし機会がありましたら、いろんな場所で島民の方とお話しされてはいかがでしょうか。
本土からは
隔絶された閉じた離島の世界で、自然と近い場所で生きる人の逞しさや純粋さを垣間見ることができるのでは、と思いますよ!

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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2019.02.01
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